梯子の頂上に登る勇気は貴い、
更にそこから降りて来て、
再び登り返す勇気を持つ者は更に貴い。
大抵は一度登ればそれで安心してしまう。
そこで、腰を据えてしまう者が多い。
登り得る勇気を持つ者よりも、
更に降り得る勇気を持つ者は、
真に強い力の把持者である。
「速水御舟語録『美術評論』四巻三号 1935年4月」
速水御舟(1894年-1935年)は、大正から昭和初期に活躍した日本画家である。
御舟は40年という短い生涯のなかで、次々と作風を変えていく。各々完成度が高く、凡人にはまるで技法の頂きから頂きに軽やかに跳躍しているかのように思える。
しかし、実際には梯子を一段一段登り詰め、そこに安住せず、勇気を以て降り立ち、さらに別の梯子を登っていったのだろう。
天才であることは間違いない。
その上での研鑽が、御舟の画業を今日なお輝かせている。
御舟の生い立ち
速水御舟は1894年、浅草で蒔田良三郎、いと夫妻の次男として生まれた。本名は蒔田栄一といったが、1909年に母方の祖母速水キクの養子になった。絵を描くことが好きだった御舟は14歳の時に、松本楓湖の安雅堂画塾に入門する。この時代に絵巻や北画南画、琳派など何でも構わず模写をやらされ、これが後年随分と役に立ったという。
この画塾で出会った今村紫紅とは、後に「赤曜会」でも行動をともにするが、日本画の「破壊」と「建設」を謳う紫紅に大きな影響を受けることになる。
大正後期から昭和初期にかけて、写実から古典を意識した装飾的様式美に至る。
代表作とされる『炎舞』と『名樹散椿』(ともに重要文化財、山種美術館所蔵)はこの時期の作品。両作品を見てみよう。
代表作「炎舞」と「名樹散椿」
伝統的な様式の焔と独特な渦巻く熱流。その明かりに誘われる蛾は平面的に描かれているが、輪郭をぼかすことで動きを出している。そして、御舟が「もう一度描け、と言われても二度と出せない」と語った闇の色。新潮文庫の三島由紀夫「金閣寺」の表紙などで見知っている人も多いと思うが、本物は一見の価値がある。
琳派的な画面構成で、実在した京都市北区の地蔵院にあった椿の老木を描いた作品。御舟によれば、「椿寺の椿の制作を着想したのは、由来名木樹と言われる古木には必ずそうした伝説と名声を発生させるだけの特殊な崇高美や画的美感がその樹姿のうちに認識されるに相違ないと言う事を想察したから」だという。注目したいのは金地の背景。「撒きつぶし」という技法で金砂子を一面に撒くことで、金箔や金泥では出すことのできない金一色の平坦な画面を実現している。これだけの画面を金砂子で埋め尽くすのにどれほどの時間がかかるのだろうか。
速水御舟の最期
1930年には、横山大観らと渡欧し、イタリア、ギリシャ、フランス、スペイン、イギリス、ドイツ、エジプトなどを歴訪し、10カ月後、帰国した。渡欧後、西洋画に影響を受けて、裸婦像など人物画を手掛けたほか、花鳥画や水墨を基調とした画にも挑み、名声は高まるが、本人は満足することはなかった。晩年の作品では抽象的な様態を追求するなどしていたが、腸チフスに罹り、40歳の若さで急逝した。生涯を通じて画風を変え続け、細密な写実描写に装飾性と象徴性を加え、唯一無二の画風を確立。27年の画業でおよそ700点の作品を残した。
速水御舟の作品が見られる美術館
山種美術館
日本初の日本画専門美術館として開館した山種美術館は、2009年に現在所在地である渋谷区広尾に転居した。創立者は実業家の山﨑種二(1893-1983)で、御舟の芸術を愛し、1976年に安宅産業コレクションの御舟作品105点を買い取った。元々保有していた御舟作品と合わせて、現在では120点の御舟作品が山種美術館の所蔵となっている。他にも酒井抱一や小林古径、川合玉堂など総所蔵作品数は1,800点(2014年時点)を数える。
ホームページ 日本画の専門美術館 山種美術館(Yamatane Museum of Art) (yamatane-museum.jp)
開館時間:10時~17時※入館は閉館の30分前まで
休館日:月曜日(祝日の場合は翌日)
料金:1,000円(特別展は別料金)
交通:JR山手線恵比寿駅より10分
住所:東京都渋谷区広尾3-12-36
TEL:03-5777-8600
【参考文献】
山﨑妙子著(2019)『山種美術館所蔵 速水御舟 作品集』山種美術館
TOKYO美術館2013-2014(2012年)枻出版社