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パロディ文学―桃太郎の場合

 パロディ―文学作品の一形式。よく知られた文学作品の文体や韻律を模し、内容を変えて滑稽化・風刺化した文学。日本の替え歌・狂歌などもこの類。また、広く絵画・写真などを題材にしたものにもいう。(広辞苑 第五版 岩波書店)

桃太郎のパロディについて

桃太郎の話について今更、くどくどしく内容を述べる必要はないと思う。桃から生まれた桃太郎が、人々を苦しめている鬼を退治するため、犬、猿、雉を従えて鬼ヶ島に行くといった筋は広く認知されている。池上嘉彦は著書「言葉の詩学」のなかで、「雀の仇討ち」や「猿蟹合戦」とともに主に構造的な観点から桃太郎のパロディについて述べている。まず、一般的な勧善懲悪型の物語を基本に悪事―計略―処罰をいう構造から分析しており、同じく民話「瓜子姫」との比較、芥川龍之介の「桃太郎」、江口渙の「ある日の鬼ヶ島」といったパロディ作品との構造上の相違に話が及ぶ。それぞれの作品の筋と池上がいう構造に関しては後述するが、ここで重要なのは原型とパロディ作品の構造上の違いではない。物語の構造分析は手段であって、そこから導き出された考えがパロディの意義を考察していくときに重要となる。この著書のなかで、池上は次のように記している。

 

よく知っている民話について、そのような見方もできるのかというような新しい経験があったとしたら、それは「構造」というものを考えてみることによって得られたわけです。馴れ親しんでいるはずのものが思いがけない新しい姿で見えてくる《中略》つまり、決まった物事とそれを表わすだけの「手段」として固定化してしまった日常言語、それを揺り動かし、眠っている創造の力を呼び起こし、新しい意味作用を創り出すこと

 

要するにパロディは、固定化してしまった概念に対し、新しい視点でもって別の価値観を生み出す行為ということになる。芸術に関しては、その時代のアバンギャルドこそが次代の古典になりうると言われるが、パロディは創造性の高い挑戦的な創作活動であり、既存概念に対する内的感情の発露、あるいは不適合感を表現しうる手段と言えなくもない。話は変わるが、落語にも「桃太郎」という演目がある。父親が息子を寝かしつける際に寝物語に桃太郎の話をするが、息子に「むかしむかしの昔っていつのこと」といった物語の曖昧性を指摘され、いつの時代にも通じる物語の普遍性を逆に息子から説かれている間に、父親が寝てしまうといった内容である。パロディが成立するには広く認知された物語や概念といったものが不可欠であるが、元になる話に曖昧性つまりは可変的な要素が多く含まれている必要があるのかもしれない。次に同書で例示された作品を見て、その可変的な性質について考えてみたい。

 

言葉の詩学で例示される桃太郎の関連・パロディ作品の筋と構造
  • 瓜子姫

《内容》

瓜から生まれた瓜子姫は機織りが大変上手でいつも機織りをしている。ある日、一人で留守をしながら、機織りをしているとあまのじゃくに中に入れてくれとしつこく頼まれる。

瓜子姫が戸を少しあけると中に入り込んできて、嫌がる瓜子姫を連れて柿をとりに行くが、そこで、瓜子姫と自分の着物を取り替えて、さらに瓜子姫を柿の木の上に縛り付けておき、自分は瓜子姫に化けて家で機織りをする。すると、美しい姫のことを耳にしたお殿様から迎えの駕籠がやってきてあまのじゃくはそれに乗って出かけるが、柿の木のそばを通りかかったときに烏が「瓜子姫は木の上に、あまのじゃくは駕籠の中」といって鳴く。結果、瓜子姫は助けられ、あまのじゃくは駕籠から引きずり出されて斬り殺される。

(構造)

勧善懲悪型の桃太郎では鬼の悪事が具体性に乏しく、《悪事》―《計略》―《処罰》という構造になっている。対して、瓜子姫はあまのじゃくの悪事が明確だが、助けられる立場で自ら計略を用いない。

そのため、《悪事》―《計略》―《処罰》となる。

 

  • 芥川龍之介「桃太郎」

《内容》

桃太郎は鬼ヶ島を征伐したいという欲求にかられ、犬猿雉を従える。黍団子の半分だけを餌として与え、3匹を飢えさせたうえで、平和に暮らす鬼たちを襲撃する。生き残るのは鬼の酋長ならびに数人の鬼たちだけで、宝物や人質を奪い取る。

 

(構造)

桃太郎は、鬼の悪事に関して具体性には乏しい。この場合、「正義の味方」と「侵略者」としてのパターンが成立しうるが、芥川は後者にあたる。《悪事》―《計略》―《処罰》という類型はされていないが、敢えて言えば、鬼は悪事を行っていないので、《計略》―《処罰》のみといったところか。

この話は鬼の視点で描かれており、弱者・強者の関係ならびに善悪の観点から言えば、瓜子姫と同じ構造となっている。つまり、鬼が善かつ弱者であり、桃太郎が悪で強者という構図である。

 

  • 江口渙「ある日の鬼ヶ島」

《内容》

鬼が向かってくるだけで逃げ出すような臆病で弱い桃太郎が、年に一度の先祖の祭りため、元気のいい鬼たちが出払っている際に、年寄りや子供の鬼めがけて凶暴な犬をけしかけ乱暴の限りを尽くすという筋書き。

(構造)

勧善懲悪型の桃太郎における、主人公と敵とを入れ替えた形。弱者・強者の関係および善悪の関係性は鬼―善―強者、桃太郎―悪―弱者となる。

 

ここで、問題なのはこれらの桃太郎のパロディが成立する要因である。元になる物語、つまりは勧善懲悪型の桃太郎にどのような特徴があるのかということになるが、本文中で池上は「雀の仇討ち」や「猿蟹合戦」に比較して悪事がはっきりしない点を指摘している。確かに、日頃から悪事をはたらいているといった程度しか仄めかされておらず、極めて曖昧になっており、桃太郎の行為の正当性が疑問視されてもおかしくない。仮に鬼の悪事が明確に記されていたとすれば、芥川や江口の桃太郎は成立しえない点を鑑みれば、こういった曖昧性すなわち可変性こそがパロディ作品を生む一因と言える。

パロディの領域について

冒頭で広辞苑のパロディの項を引用したが、その領域は文学作品にとどまらず、絵画や写真を題材にしたものまで及んでいる。ものまね芸人のそれも、広義のパロディに含まれるといえるだろう。いずれのジャンルにせよ、広く認知された作品なり人物なりがパロディ成立の絶対条件であることに変わりはない。だが、敢えてその絶対条件を外してみれば、どうなるだろうか。島田雅彦の作品「僕は模造人間」では冒頭、主人公が母胎にいたときの回想が描かれている。これは三島由紀夫の「仮面の告白」のパロディだが、この小説の主人公「僕」こと亜久間一人はごく普通の少年を演じ、そのことを自覚している。どんなに奇抜な行為をしようが、それはオリジナリティではなく過去の人間たちの模倣に過ぎない。数年前までは想像することすらできなかったテロや陰惨な事件が日常化している今、敢えてごく平凡な人間を演じることで、自分を滑稽化する―主にそういった内容だが、これは極めて個人的なパロディではないだろうか。三島の「仮面の告白」を彷彿とさせるようにしたのは、ボディビルで肉体を鍛えた三島由紀夫自体が虚弱体質である平岡公威が創出したパロディだったからに違いない。そもそも完全なオリジナリティがないとしたら、パロディの元はパロディという「卵が先か鶏が先か」といった話にならないだろうか。桃太郎の章でパロディの成立に曖昧性=可変性が必要だと述べた。自分自身すらパロディになりうるという事実は、人間が自分という存在自体、実は曖昧にしか認識できないことを示している。

ここで、パロディ成立の条件である可変性をテーマにした映画を紹介したい。変わりうるのは記憶すなわち過去そのものである。まず、下記にその作品「去年マリエンバードで」のあらすじを示す。

 

 バロック風の豪華な装飾の施された宮殿に一人の男(Ⅹ)が現れる。そこでは宿泊客達が上演されている劇を観たり、テーブルゲームやピストル射撃といった遊びに興じている。宮殿内はどこも似かよった風景が続いているため、迷路のような様相を帯びている。男は廊下や部屋を彷徨ように歩き、やがて一人の美しい女(A)を見つける。男は女に去年マリエンバートで会ったというが、女にはおぼえがない。それでも男は女に迫り続ける。去年、私たちは愛し合い、一年後の再会を約束したのだと言って。そのうち、女は何が真実で、何が幻想なのか分からなくなっていく。怖れを抱いた女は、夫(M)に助けを求める。しかし、夫はこう言い放つ。すべてはもう遅いのだと。翌日、意を決した女は男と共に宮殿を去っていく。

 

読んでわかるとおり、作中で劇的と思われるような出来事は何も起こらない。ただ、ひたすら男が女に説得を繰り返すだけである。見知らぬ男から、あなたとは以前にお会いしたことがありますなど言われて信じる女性がいるだろうか。そのような言葉に信憑性がないことは言うまでもない。ややもすれば、絵空事になったはずの作品は、しかし、不思議なリアリティをもって胸に迫ってくる。映画の脚本はヌーヴォーロマンの旗手アラン・ロブグリエであるが、ここでは作者の意図を解き明かすのではなく、人間に記憶がいかに曖昧なものか指摘するだけに留めておく。そして、過去=記憶とするならば、曖昧な記憶に基づくは過去変わりうるのである。仮に個人的なパロディがありうるのだとすれば、過去すら可変的なものとしてしか認識できない人間は、それこそ日常的に自らパロディを生み出しつつ生きているとは言えないだろうか。

 

パロディの多様性の意義

パロディは曖昧で可変的な基礎のもとに成立しうる。それは文学作品や絵画、写真といったものだけではなく、自分自身すらパロディ化できるのではないのだろうか。意識的にではなくとも、自らの理想や現在からの脱却を求めて、意識的にではなくとも人は日常的にパロディを生み出している。もはや何がオリジナルなのかわかりうるはずもないが、このパロディの氾濫こそに、おそらく人が生きていくための救いがあるのだろう。

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