はじめに
アントワーヌ・フランソワ・プレヴォー、通称アベ・プレヴォーの小説『マノン・レスコー』は時を超えて読み継がれてきた。プレヴォーは多作の人で、フランスだけでなくイギリス、オランダ、ドイツ、イタリアを転々としながら、同作以外にも多くの小説を執筆した。その全作品は66巻、翻訳を含めれば、113巻にも及ぶという。
しかし、今日において彼の名が知れ渡っているのは、本作『マノン・レスコー』によるものだと言えるだろう。将来を嘱望された聖職志願のデ・グリューが、マノンの抗い難い魅力に惹かれて堕ちていく筋書きは映画やオペラにもなっており、現代においても多くの人々の心を捉えている。マノンは男を破滅に至らしめる女「ファム・ファタル」の祖であるとされるが、デ・グリューは果たして不幸であったのだろうか。『マノン・レスコー』が出版されて280年余りが経過したにもかかわらず、今なお、新たな読者を得ている理由をまずはこの点から考えてみたい。
デ・グリューは不幸だったのか
『マノン・レスコー』は正式には『シュヴァリエ・デ・グリューとマノン・レスコーの物語』という作品で、デ・グリューと彼から見たマノンを描いた作品である。
プレヴォーは、『マノン・レスコー』の冒頭で作者の言葉を記し、執筆意図を次のように明かしている。
人はグリュウ君の行状に、燃えさかる情火の恐るべき実例を見るであろう。私は恋ゆえに盲目となった一青年を描こうとしているものである。彼は幸福であることを拒絶して、終局は、悲境にみずからとびこもうとする(中略)良識ある人びとなら、この種の作品をもって、必ずしもあらずもがなの作品とは思うまい。楽しい読書という喜び以外にも、品性をみがくことのできるようなところも少なからず見出されるだろうと信する。そして、私に言わせれば、公衆を楽しませつつ同時に教育するのは、彼らに大きな奉仕をすることになるのである。
アベ・プレヴォー 青柳瑞穂訳(2004)『マノン・レスコー』新潮社4-5頁
要するに、情念に支配され堕落するデ・グリューは悪い見本であり、本書が読者への戒めになるように書かれた教育的書物だという点を強調しているのである。一読すると、当時の新興勢力であるブルジョアたちを道徳的に導こうとする啓蒙思想に則っているかの内容だが、実際には不道徳の謗りを避けて、自らの作品を正当化するための方便であろう。
表層的には、『マノン・レスコー』は名門出の将来有望な青年が、身持ちの悪い女と関係したために、堕落するという不道徳な話である。
ただ、作者の言葉にあるように、デ・グリューは幸福を拒絶して、悲境に自らから飛び込もうとしているのだろうか。世間的には作中で彼を捕らえる警視総監が「汝は永久に知恵とは和解しないのだろうか」 と嘆くように、愚かな存在なのかもしれない。
例えば、マノンを誘惑したG……M……氏から共謀して金を騙し取ろうと計画したにもかかわらず、G……M……氏の屋敷から抜け出してくるはずのマノンは現れず、引き止められて抜け出せない旨を記した手紙を届けさせた娘と一夜をともに過ごして欲しいとまで言われる始末。これには、さすがのデ・グリューも「おまえは、無節操で、不良の女でしかないということが、これほどはっきり示されたことはない。おまえのそのあさましい根性がわかったからには、おさらばだ、卑怯者め」 と罵り立ち去ろうとしたわけだが、マノンの魅力には抗えず、突如として踵を返し、彼女を抱きしめ、無数の接吻を与えたばかりか、あまつさえ、自分が逆上したことを詫びてしまう。
しかし、デ・グリューは愚かさと同時に、父や友人と決別し、自らの輝かしい将来を棒に振ってまで、贅沢好きで金がかかるというある種の欠陥を包含するマノンをありのまま受け入れ、愛し続ける強さを持っている。東浦弘樹氏は著書「フランス恋愛文学をたのしむ」のなかで、ファム・ファタルが成立する条件の一つとして、「男は破滅することに心のどこかで同意している」点を挙げて、次のように述べている。
ファム・ファタルは男をだまして破滅させるわけではありません。男が勝手に彼女にのめり込み、勝手に自滅していくのです。いわば、自業自得というか独り相撲であるわけですが、おもしろいのは、男は決して自らの行ないを後悔せず、むしろそこに喜びを見いだしている点です。逆に言えば、ファム・ファタルの側に悪意はありません。この男を苦しめてやろうとか、破滅させてやろうとかというつもりはまったくないのです。
東浦弘樹(2012)『フランス恋愛文学をたのしむ』世界思想社53-54頁
この説に沿って考えると、デ・グリューは狂信的な恋の盲目さで転落していくわけではなく、破滅は理性的な判断のもと、望んだ結果であり、そこに喜びを見出していることになる。
いずれにせよ、後先考えず、ひたむきに愛を貫くデ・グリューの姿こそが、『マノン・レスコー』が今日まで命脈を保っている要因の一つと言えるだろう。
マノンの人物描写
次にマノンの描写について考えてみたい。下記はマノンとデ・グリューが初めて出会った場面である。
ただひとり、非常に若い女だけになったが、その監査役らしい相当年配の男が、バスケットの荷物をしきりにとり出させているあいだ彼女は中庭に残っていた。じつに美しい女だった。これまで異性のことなど考えてみたこともなければ、意識して女の子をながめたこともなかったような私、世間からは、温良だの、慎重だのとほめられてきた私が、たちまち情火をあおられて、逆上してしまったのである。
アベ・プレヴォー 青柳瑞穂訳(2004)『マノン・レスコー』新潮社23頁
読んでわかるとおり、マノンは美しい女と記されているにすぎない。なるほど、司税官B……氏やG……M……氏が虜になるくらいである。美しいことは間違いないのだろう。
しかし、髪の色は何色なのか、肉感的なのか華奢なのか、容姿は一切描かれていないのである。『マノン・レスコー』は「私」がアメリカに流刑になるマノンと彼女に付き添うデ・グリューに出会うところからはじまり、その二年後、カレーの港で再会したデ・グリューが「私」に語ったマノンとの出会いから別れまでの顚末を書き留めた形式を採っている。
つまり、書き手である「私」はマノンを一度実際に見ているわけで、改めて容姿云々を言う必要がなかったことは、容姿の描写がないことの理由として挙げられるだろう。
あるいは、プレヴォーはマノンの容姿を極力描かずにいることで、読者の想像の拡がりに任せたとも取れるわけだが、ここで重要なのは作者の意図を明らかにすることよりも、これによる効果である。デ・グリューの一人称で描かれるこの物語では、マノンの心理描写もない。
謎に満ちたマノンという存在は、読者が各々胸に描く運命の女を反映させるだけの余白を持っているのである。
人を愛する時、この人のためになら、死すら厭わないと思うことはあるだろう。そうした経験を投影することのできる存在がマノンであり、人が恋することをやめない限り、この物語はいつの時代にも受け入れられていく。
おわりに
これまで、デ・グリューの破滅は自らの愛を貫くため理性的な判断のもと望んだ結果であり、その「ひたむきさ」こそが人々の胸を打つということと、マノンという存在は読者が自身にとってのファム・ファタルを思い描くとき、それを反映させる余白を持っていることについて述べてきた。いずれも、『マノン・レスコー』が時を超えて読み継がれてきた理由と言っていいだろう。
作者のプレヴォーはベルギーに近いアルトワ地方のエダンで生まれた。15歳の時に志願兵になったのを皮切りに、幾度か聖職を離れて、軍人になったり、愛人をめぐって父親と諍いを起こしたり、事件を起こして海外に逃亡したりといった波乱に満ちた人生を送った。『マノン・レスコー』にはこうしたプレヴォーの人生が反映され、これがリアリティを与えていることも、作品が生き長らえた要因の一つと言えるかもしれない。
さらに言えば、堕落していくデ・グリューが作者プレヴォーの分身であるならば、デ・グリューを援助し続け、美徳の種を撒こうとし続ける友人のチベルジュもまた、プレヴォーのもう一人の分身と捉えることができる。
つまり、作者に内在する狂気と理性の振れ幅が、この作品に露らわれているわけで、これが本作を尚一層生き生きとしたものにしている点を指摘して書評を締めくくりとしたい。
アベ・プレヴォー 青柳瑞穂訳(2004)『マノン・レスコー』新潮社
日中鎮朗(2017)「歴史的,社会的,文学的ファム・ファタル像の変遷」『言語と文化』法政大学言語・文化センター13 – 35頁
饗庭孝男 他編(1992)『新版フランス文学史』白水社
東浦弘樹(2012)『フランス恋愛文学をたのしむ』世界思想社