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友情の終わり

友人関係の悩みはいつの時代にもあるらしい。

インターネットで検索すれば、「いつも誘うのは自分ばかりで、向こうからは誘われない」、「自分はいつも聞き役で、こちらの話は聞いてもらえない」、「気づけば、自分が奢ることが多い」、「約束を平気で反故にする」、「こちらの都合に配慮しない」などといった声を簡単に拾うことができる。

 

かく言う私も、つい先日、25年来の「親友」の連絡先を携帯電話から削除した。

 

もう連絡を取ることはできない。

 

だから、同じような葛藤を抱える人々の気持ちは、良くわかる。

ただ、この文章は同じような悩みを抱える人々に何か解決策を提示するようなものではない。四半世紀に及ぶ交友を経て、自身がなぜこうした決断をしたのか、整理をしておこうと思い立っただけなのだ。

 

私の場合、「誘うのはいつも自分」で、「話すのは自身の方が多く」、大概は「奢っていた」。

しかし、こうした個別の事象自体が友情の終焉を招いたわけではないと思う。

何故なら、これは最近にはじまったことではないからだ。

私が彼を一生付き合う「親友」だと信じていた時でさえも、そして、おそらく彼もそう思ってくれていたであろう時期でさえも「誘うのはいつも自分」で、「話すのは自身の方が多く」、大概は「奢っていた」のだから。

 

そんなことは気にならなかった。

 

実際、立場を入れ替えてみれば、彼は「時間が合えば、いつも誘いに応じて」、「相手の話を聞いて」いたわけで、その点、感謝しかない。完全にイーブンな人間関係など存在しない。

 

きっと、友人関係で悩んでいる人達も冒頭で記したような理由だけで、葛藤を抱えているわけではないはずだ。

 

おそらく、ただただ、辛くなっただけなのだ。

過去にあった互いにしかわからない共通理解のような親密さが、今はもうないという現実が。

 

生きていれば、過去は変わる。過去は何処かに保存されているわけではない。歳月を重ね、否応なく物事の多様な見方を身に着けていく中で、その意味性が変化しないことなどありえない。

 

あの時にわからなかったことが、今になってわかる。そんな時、たまらなく懐かしくなって、連絡を取り、会って確かめたくなる。けれど、それは果たされない。

 

じっくり互いに向き合う時間など、もうないのだ。

 

この25年間、彼の誕生日にはメッセージを送っていた。

普段、彼のことを思い出すことは、少なくなっていたけれど、細々とでも繋がっていたかったのかもしれない。

毎年その連絡を契機に、昔話や近況報告があり、その文体は確かに昔と変わらず彼のものには違いなかったけれど、距離だけが感じられるようになっていた。

 

このままでは、本当に親密だった頃の記憶まで上書きされてしまいかねない。

だから、彼への連絡をやめた。

 

もちろん、彼から私に連絡することはできる。

ただ、きっと彼からの連絡はもう来ないだろう。

 

なぜなら、私たちは本当に親友「だった」からだ。

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